住友・別子銅山記念館


続けると言いながら、ほったらかしの撮り溜め写真。


いい加減忘れそうなので、前回の新居浜市麓城跡に続いて登りました「生子山城跡」について進めていきたいと思います。


この城跡は、麓城跡と谷を挟んで隣り合わせる位置にあり、その麓には山根公園が整備されております。



その山根公園に隣接して、別子銅山の鎮守社として祀られてきた別子大山積神社と別子銅山記念館が併せて建てられています。



別子銅山の鎮守、大山積神社。


山ノ神であり、古代越智氏族の祖神、そして三嶋明神とも言います。



九州に天孫降臨した、天孫瓊瓊杵命は、海幸彦と山幸彦の娘とそれぞれ結婚したとされますが、この山幸彦が別名・大山積大神なのです。


物部氏系の氏族といわれ、神武天皇はその子孫ということになりますので、ひいては天皇家の祖神の一柱ということになります。



別子銅山記念館の入り口。


半地下の入って下がっていく作りになっています。


別子銅山の坑道をイメージしているのでしょうか?


麓城跡を登った後で、トイレをお借りするついでに入館したのですが、なんと!


拝観無料でした!


さすが旧財閥系の住友グループ。


館内は写真不可でございましたので、詳しくは、こちらをどうぞ!





愛媛県新居浜市の南東に位置する別子銅山は、1690年(元禄3年)に発見され、翌1691年に開坑しました。以来、1973年(昭和48年)に閉山するまで、江戸・明治・大正・昭和の4時代283年にわたり、銅を産出し続けました。

海抜約1,200mの地点から採掘が開始され、最終的には海抜マイナス約1,000mまで、営々と掘り続けられました。

開坑から閉山まで一貫して住友が経営した、日本はもとより世界でも例のない銅山であるため、普通なら散逸していてもおかしくない数々の貴重な史料を見ることができます。


以上、ホームページより。



別子銅山は、現在の住友グループの基礎を築いたと言えます。


住友家は、江戸時代から全国で鉱山開発を行う山師を生業のひとつとしており、掘り当てた鉱山の中で、この別子銅山が最も大きな銅山でした。


見つけた時の最初の坑道は、「歓喜坑」と呼ばれ、坑夫たちが安全を祈って灯明をあげ、その入り口に置かれていた銅鉱石で作られたお地蔵さまは、現在では別子山村にある真言宗の南光院本坊に祀られています。



住友家の屋号は「泉屋」。


この泉を分解して、「白水会」と呼ばれる組織が財閥が解体された後も、住友をグループとして保つための中核を成しています。



愛媛県新居浜市は、現在でも住友グループの企業城下町のような雰囲気がありますね。


銅のあるところに金あり。


記念館を拝観して、住友グループについて知らないことばかりでした。


とても勉強になりました。


ありがたいことです。


愛媛県の方は、ぜひ一度行ってみた方が良い場所でした。


お参りして、いよいよ山を登っていきます。