(尾根に上がるとすぐにボランティアによる立看板が置かれている)



道というより山の斜面の踏み跡を登るという感じですが、いやに綺麗に間伐されているのに驚きました。


たいてい山城があったと言われる山に登るとほったらかしで、シダがボサボサ、枝が伸び放題、木が倒れて道を塞いでる、というのが常識なのですが。


なぜここまで歩きやすいように木が整えられているのか?


後でその理由がわかりました。



急な斜面を登っていくと、岩盤が掘り込まれたところに差し掛かりました。



これが1条目の堀切跡のようです。



間伐されているので眺めが良いです。



逆から見たところ。


山城を意識していない人はわからないかも。



分かれ道に標識。


物部線。


四国の山間部は、古代において物部氏の名をよく見かけます。


越智氏も物部氏族だと言われています。


物部氏は天孫瓊瓊杵命の妻の氏族だとも言われています。


話がズレるので、ここでは詳しくは述べません。



生子山城跡は←左です。


ここから100メートルほど山道を上がって行くと、尾根に出ました。


尾根に着いたところに簡易なベンチと手書き看板が置かれています。



実は、生子山城についての、資料はとても多いです。


それだけ、この新居郡においての古くからある中心的な位置付けの山城であったことを感じさせます。


歴史的に、松木氏の山城であったと言われています。


それより前の南北朝時代の康暦元年には、阿波・讃岐・土佐の守護大名で室町幕府の筆頭管領家の細川頼之が兵40,000人にて伊予に攻め込み、河野家の一族一条修理亮俊村が700騎でこの城に籠って迎え討ったが、7日目にして落城。


天正13年8月6日には、先の松木三河守安邦が小早川隆景に攻められて自害しています。


また、往古には伊予掾藤原純友がここに籠ったとも言い伝えています。



立看板のあるところは、とても狭いです。


先を見ると、再び鉄塔が立っていました。


おそらくはここから、この鉄塔があるところ、そしてその先の一段高くなっている辺りまでが、曲輪の縄張りだったのではないか?


と思いました。


続く→。