(山頂にある大きなヤマモモの木の前で記念撮影)
月一で行っておりますお寺の歴史勉強会。
いつもは資料をもとにいろいろな推察を行なっているのですが、この日は初めてのフィールドワークへ出かけました。
地元の人もその存在を知らない「明神山」へ。
なぜここを選んだか?
と言いますと、
①地元の神社である飯成神社のことを記した「飯成神社沿革誌」に、この山に対する記述がある。
②光蔵寺伽藍図に、明神山城と稲荷神社が描かれている。
③山頂に明神山城の砦跡の痕跡が遺されている。
④明神ヶ鼻には、3段の巨石がある。
⑤山頂に人工の列石がある。
⑥山の周辺には、城ヶ谷や城山・中町などの地名と、厳島神社跡に巨大な楠木がある。
と、以上の理由で地元の人も忘れ去っている山に登ってきました。
光蔵寺の裏山に連なるところにあり、同じ水ノ上部落の歩いて行けるところにこのような山城があることを私自身数年前に知りました。
1人で登って、城跡を見つけた時の驚きと感動と、畏怖の念は未だに忘れられません。
城ヶ谷から登り、もうすぐ山頂。
大きなヤマモモの木がお出迎え。
参加者で記念写真を撮りました。
この郭跡には、河原の石を並べた列石があります。
皆で、
お墓か?
祠跡なのか?
方角を示すものなのか?
談義に花が咲きました。
2連の大きな堀切跡。
そして郭跡があり、その向こうにもさらに小さな2連の堀切跡があります。
登ってきた反対側の尾根から下山しました。
中町に下りると、かなり広い谷間に出ました。
その谷筋を進むと中町池に。
私の個人的な考えでは、中町という名前が残っていることから、鎌倉時代から室町時代・戦国末期までの中世には、敵からの襲撃に備えて、この谷に集合して家屋が立ち並んで集落を形作っていたのでは?と考えています。
中町池のすぐそばには、厳島神社跡があり、このような石積みが僅かながらに遺されています。
そして、そこには樹齢数百年と思われる楠木の巨木が荒れた山の中に佇んでいました。
神社の沿革誌によりますと、南北朝時代までこの山には楠木の巨木がたくさん生い茂っていたとあり、南朝の武将であった日野中将や四条卿が吉野よりやってきてたくさんの船を建造するのに切り出してしまったとあります。
おそらくは、このような楠木の巨木がたくさん生い茂っていたのでしょう。
春の日和の中、汗をかきました。
みなさん、怪我なく下山できて良かったです。
ありがたいことです。